元旦の朝に、〝「明けましておめでとう」は、一年間を無事に生き延びてまた新年を迎えられたことを、互いに称え合う挨拶なのではないか?〟というようなことをブログに書いた。
そのあと、年明け早々立て続けに事故や災害のニュースを聞くにつけ、僕はまたその想いを深めることになる。
時として「生と死の境界が極端に低くなる瞬間」に出遭うことは、ヒトを含む、生物の宿命だ。
しかし「常日頃はそのことをあまり意識せず、すっかり忘れて生きている」ということもまた、生物の健全な姿であろう。
僕らは、自分の前の道を懸命に進むことしかできない。
紅白歌合戦を観たがるのは娘たちだった。
僕は長年、大晦日は格闘技番組を観ていたが、ここ五,六年は、娘たちに従い紅白歌合戦を観て年を越す。
一月一日
元旦の朝の町を歩いて、新年最初のブログを書いた。そろそろみんな起きて来ただろうとリビングに行く。
「明けましておめでとう!」
それまで書いていたブログの内容のせいで、思いの外「想いのこもった挨拶」となってしまったようで、妻と娘をびっくりさせてしまう。
「どしたん?めっちゃいい挨拶。」
気持ちがいいね、と妻に褒められる。圧を感じる、と娘には引かれる。
お雑煮と、妻の「自分が好きな物だけを集めたお節」をいただく。
その後は日が暮れるまで、四人でずっとカードゲームをやって過ごした。「ナンジャモンジャ」と「私の世界の見方」というゲームだ。
久しぶりに笑いまくって、声が嗄れそうだった。
夕方に地震があった。
けっこう長いこと揺れた。テレビをつけて確認したら、北陸方面が大変なことになっているようだった。
一月二日
早朝から妻の実家へ向かう。車で片道4~5時間かかるが、日帰りだ。
太平洋沿岸の小さな漁港の町。
両親は、うちの家族の顔を見るのをとても楽しみにしてくれている。毎年お盆とお正月には、なるべくみんなを連れて泊まりで行くようにしていた。
コロナで行けなかった数年間と、両親が年齢とともに少し弱くなってきたのとは、時期的にちょうど重なっていたように思う。
大勢で押しかけて、布団を用意してもらったり食事のことで気を遣わせたりするのは、もう申し訳ない感じになった。
でもせめて娘と孫たちの顔だけでも見せたいと思い、車を走らせる。
途中の街で僕の息子を拾う。
去年の正月以来に顔を合わせる。喋るのも「騒音騒動」で電話した時以来だ。
車の中で久しぶりの家族五人が揃った。
息子がどんな仕事を始めたのか、みんな興味津々で訊く。
両親は元気そうではあるが、まあいろいろと生活の中での問題も出てきている。娘二人で二人とも県外なのでいろいろと助けてあげたいとは思うが、如何せん休みが少ない。連休というものが盆と正月だけなのだ。
広い畑の草刈りだとか、空き家になった隣の親族の家の整理だとか、遠出の買い物だとか。やってあげられたらと思うのだけれど、なかなか手伝うことができないまま日々が過ぎていく。
滞在時間も4~5時間で帰路につく。
顔だけでも見せたいという気持ちは、まあ伝わっただろう。
帰り道の国道で、前を走っている車が「妻の高校時代からの友人の車」なのではないかと気づく。数年前に一度見たことがあった。
車を並走させて窓を開けると、やはりそうだった。
妻が全力で手を振り、向こうも気づく。
信号待ちで並んで停まり、大声で話しかける。
スーパーの駐車場に入ってしばらく立ち話をした。
お互いの実家の町からは二時間以上も離れた路上で、正月で帰省していた友人親子は今から10時間かけて九州まで帰る途中だった。
「奇跡だね〜!窓から手を振ってるの見て、鳥肌立って泣きそうになったわ。」友人さんはとても感激していた。
妻の高校時代の仲良し四人組。事あるごとに、妻は「四人で集まろう」と連絡を取るのだけれど、なかなかそれは実現しないのだった。
本人やそれぞれの子ども達の、精神的・身体的・経済的、まあとにかくみんないろいろな悩み事を抱えていて、自分たちの思いどおり、自由には動けないのだ。
そういえば、母親と子ども二人のこの友人さん家族とは、4,5年前のお正月に妻の実家で一緒に遊んだことがあったんだった。子どもさんたちもずいぶんと大きくなっていた。
別れ際はやっぱり、「また四人で集まろうね。」だった。
途中の街で、僕の息子を降ろす。
翌日は県からの支援物資を能登へ運ぶため、ヘリに積み込む仕事が入ったらしい。
一月三日
朝早めに、大学生の娘が帰って行った。妻が駅まで車で送る。
前日のおじいちゃんの家からの帰りの車内で、就職の話もしていた。今年はもう四回生になる。
この娘も二回生の途中から精神的に調子が悪くなり、学校に行けなくなった時期があった。どうしたものかと心配していたが、彼女は何とか踏みとどまっている。
話をしたり手紙を書いたりはしたが、所詮は離れて暮らしている。彼女自身が自力で少しづつ頑張っているお陰である。
今回の帰省では、だいぶ本来の強さが戻ってきた感じがあった。一つ壁を突き抜けて、成長したようにも見えた。
就職もいくつかの方向で迷ってはいるが、以前のような「何がやりたいか分からない、夢なんかない」みたいな状態ではなくなっていた。
語ってくれた「やりたいこと」は、「教育」に関する、なかなかにでっかい夢だと思った。しかも、これからの時代に絶対に世の中に求められていくことだと思った。
僕は本当に嬉しく感じたし、娘にもそう伝えた。
四日からは僕も仕事が始まった。下の娘の学校も始まった。
またいつもの繰り返しの日々が始まる。
みんながそれぞれに頑張っていることを確認し、自分も自分の役割を果たそう、そう思えた正月だった。
あ、そうそう。
冷凍していた干し柿を、娘が帰ってきた日から、みんなで毎日一つずつ食べたんだった。かなり美味しく出来ていた。
「ジップロックに入れて冷蔵庫で熟成。時々開けて空気に触れさせる。」ということを数週間やると、白い粉が吹いてきて、より糖度が増します。「熟成」大事。