書きかけでしばらく放っていた文章を何とかせねばなるまい。
もう四月も終わりだ。
少し前の週末、妻の故郷の町へ行って来た。
妻が、子どもの頃から所属している楽団の年に一度の定期演奏会に出演するためだ。演奏会はコロナ禍での数年の中断を経て去年から再開されている。去年は予定が合わず僕は一人、家で留守番をしていたのだが、今年は久しぶりに観に行くことができた。
妻の実家は正月に日帰りで訪れたところなのでそれほど間は空いてはいないが、その時との違いは末の娘が運転するようになったことだろう。妻の両親は、いつまでも幼い感覚の末っ子の孫娘が、ほんの1~2ヶ月の間に運転免許を持っていたことに驚いていた。
土曜日の仕事が終わってから向かったので、妻の実家に着いたのは夜になってからだ。途中で夕食も済ませていたので、着いたらお土産のお菓子を食べながらおしゃべりをして、あとは寝るだけ。そんな時間だった。
日曜日、朝から妻はリハーサルに出かけて行った。そして午後からはすぐに本番である。
僕と娘は、切れていた電球や蛍光灯を買って来て交換したり、布団の詰まった押入れの掃除や整頓をしたり、お昼ごはんの準備を手伝ったり、痛いお義父さんの脚をマッサージしたりして午前中を過ごした。
過疎化の進む町では蛍光灯を買うにも隣町まで車を走らせる必要があった。
スーパーは一軒だけあるけれど、家電量販店もドラッグストアも無い。個人の商店はなくなっていく。80代で他の町まで車を走らせるのは億劫だろう。
それでも完全に免許を返納してしまうと生活が成り立たない。
電球が切れてからしばらく使っていなかった廊下の照明はスイッチもおかしくなっていて、電球を替えただけでは点かなかった。スイッチの部品も交換する必要があるのかと思ったが、スイッチパネルをドライバーで開けてしばらくガチャガチャやっていたら何故か点くようになった。
お義母さんが大層喜んでくれたのでよかった。
春から寮生活を始める娘のために、もうあまり使っていないお客さん用の敷布団を一枚、いただくようお願いした。
そのついでに押入れ掃除をしたのだけど、何枚もの敷布団、夏用冬用掛布団、敷きパッド、毛布、枕、そういう物たちが大きな押入れにパンパンに詰まっていた。
お義母さんには重くて押入れから下ろせない布団もあるらしい。
主には我々五人家族が泊まりに来る時のためにいろいろ準備してくれていたものだったのだろうと思うと、やけにありがたい気持ちが湧いてきた。
そうこうする内に妻がお昼ご飯を食べに帰って来た。
みんなでお昼を食べて、町の文化ホールへ出かける。
なかなか良い演奏会であった。
妻も、事前に送ってもらった楽譜で自主練習をしただけでほぼぶっつけ本番であるにも関わらず、充分に無難にこなしていた。音数が少ない場面でも全体の中でも、ちゃんとピッチの合った音が聴こえてきた。
そもそも、長年こうやってパッと集まって曲を仕上げるということが可能なメンバーなのだから、みんなそれなりに上手い人達なのだ。
やりたい人は誰でも受け入れて、無理になった人は抜けていく、という感じなので毎年少しずつメンバーの変化はある。その中でうちの妻は子どもの頃からほぼずーっと出続けているらしい。町を出てからも演奏会の時にはいつも帰って来ている。
ただ、演奏会が終わったらいつも打ち上げに参加することもなく、すぐに帰路につかなければならない。
帰りの高速道路の車内で演奏会の感想などを話していた時のことだ。
二時間ほど僕が運転して、妻と運転を交代していた。「楽団の中に同い年の人はいるのか?」という僕の質問から、妻の「普段は閉ざしている思い出の扉」が開いてしまった。
それは、妻の中学生時代の部活動の話だった。
当時、妻は吹奏楽部の部長をしていた。
一生懸命部活に取り組みたい顧問の先生・部長の妻に対して、「そんなのダルくてやってられない」という対抗勢力たちが、みんなで一斉に辞めてしまおうぜ、ってなったらしい。
揉めた挙げ句の最終ミーティングで、顧問の先生の「音楽を真剣にやりたい人は手を挙げてください。」の問いかけに手を挙げたのは妻一人だけだったという。
ただ、ミーティングの後で、「さっきは雰囲気で手を挙げられなかったけど、本当は部活を続けたい。」と言ってきた人が四、五人はいた。その人達と後輩達とでやっていったのだけど、その後も学校生活の中で辞めていった人達にちょこちょこ嫌がらせをされていたらしい。
以前にも断片的には聞いていた話ではある。でも今回は感情を伴い、がっつりと話してくれた。
彼女のトラウマでもあり、その頃人間関係にすごく悩んでいろいろ考えたことが、彼女のその後の人間性にも影響を与えているのかもしれないと思う出来事だ。
夫婦で褒めるのも何だけど、出会った時からずっと彼女はなかなかに人格者である。いつもいつも自分の為より他人の為を優先する。優しくて前向き。
いや、好きになった頃はそんなことまでは分かっていなかった。一緒にいるうちにだんだん分かってきたことだ。
中学生時代は、勉強も運動もできて良い子の優等生だった彼女のことを、面白くない目で見ていた同級生もいたのかもしれない。そんな周りの視線に対して彼女は、裏表のない「真のいい人間」、自分の思う「正しい人間」であろう、と心に誓うことで、それからの人生をずっとやってきたんじゃないか?
僕はそんな気がしている。
「・・・だからその部活のOBバンドであるこの楽団に、同級生はほとんどいないのよ。」
とにかく僕は真剣に話を聞こうと思っていた。つらかったんだね。大変だったんだね。そんな気持ちを込めてうん、うん、と静かに相槌をうつ。
そしてハッと高速のJCTの表示に気づく。
「あっ、ここ左だ!」
遅かった。
話すのに夢中だった運転手の妻も、一生懸命話を聞いていた助手席の僕も、JCTの分岐のことをすっかり忘れていた。
このままでは家ではなく全然違うところに行ってしまう。
昔話に夢中になり過ぎていた自分たちが、何だか可笑しかった。
次のICで下りる。
ETCレーンではなく一般レーンに入り、インターホンで係の人とやり取りする。
状況を説明し、車種とナンバーを控えてもらった上で、ETCカードを抜き取ってから、ゲートを開けてもらう。
一般道に出てUターンし、ICの一般入口で発券機を素通りして再びインターホンで係の人と通話する。ゲートを開けてもらい、もう一度、間違えたJCTの方へ向けて走り始める。本線に入ってからETCカードを挿し込む。
以上が高速道路で下り口やJCTを間違えた時の手順である。
僕らは、今度はJCTの分岐を正しい道へと向かった。