初夢は、見た気はするが断片すらも憶えてはいない。
時間は少し早かったがしっかりと目が覚めてしまった。布団の中で初夢を思い出そうと努めてみたが無理そうだった。
そして何故か、唐突に「明けましておめでとう」について思い始めた。まあ、元旦だから、ということではあるのだろうけども。
明けましておめでとうございます。
「ただ日付けが変わっただけで何がおめでたいのかわからない」みたいな軽口を聞いたことはある。まあそうだね、とは思うけれど、今朝は何故だか「あぁ、”生きてること”がおめでとうなんだね」と解ったような気になったのだった。
「あなたも私も、また生き延びて新しい年を迎えられましたね。」そのことを互いに称え合っての「おめでとう」なんじゃないか、と。
たぶん「生きていることが当たり前ではなかった」時代に生まれた新年の挨拶なんじゃないかと想像するが、いつの時代もそれぞれに、生きていくことは容易いことではない。
その時々、その場所、その立場。生きていられない要因はいろいろある。大きいものから小さいものまで。
「(こんな生きづらい世の中で)自分、今日も生きててエラい!」みたいな言葉を目にすることがある。辛い自分を励ます、自虐も含むユーモアなんだろうけど、その中に微かな傲慢も感じてしまう。
生きてることは別にエラくもなんともねえよ、と思う。
誰かの作ってくれた建物にいて、誰かの作ってくれた服を着て、誰かの作ってくれた野菜を食って生きている。群れで生きることのメリットを忘れて自力で生きていると勘違いしてしまえるくらいに、僕は他者の恩恵に守られながら毎日を平穏に暮らしている。
「明けましておめでとう」は、一年に一回だけという控えめさで、相手と自分と神様への「感謝と、敬意と、励ましと、共感と、歓び」を含んだ、非常にスペシアルなご挨拶なんじゃないかと、あらためて思ったのだった。
…また今年も相変わらず青臭いことを書いている。
元旦の「新鮮な気分ハイ」かもしれないし、僕が年をとったということなのかもしれない。年をとっても青臭いとは救われない。
着替えて外へ出る。
だんだん明るくなってきた。早朝の静かな元旦の町を歩くのが好きだ。
誰にもすれ違うことはない。
が、宅配便の会社は稼働している。お疲れ様です。ありがとうございます。
仕事場の郵便受けに新聞を取りに行く。
元旦の分厚い新聞。お正月もご苦労さまです。ありがとうございます。
ついでに鉢植えたちに水をやってから帰る。
妻がもう洗濯を回していた。
僕はブログなぞ書きながら、お雑煮ができるのを待つ。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。