僕が、生まれてから小学校1年生の終わりまで住んでいた家は、少々変わった造りになっていた。
その家は、今住んでいるのと同じ市内のもう少し市街中心部、昔の城下町の雰囲気を残す地区にあった。
地形的には、近くを流れる大きな川の治水のために施した大規模な盛土の縁にあたる、「段差の部分」に建っていた。
玄関の前から見ると木造二階建ての家だが、中に入るともう一つ下の階がある。
家族は「地下」と呼んでいたが、正確には地下ではない。
その階からも外へ出られ(裏側へ)、そこも地面だ。
前から見ると二階建て、裏から見ると三階建て。段差の地形を利用して建てられた家だ。
近所にも同じような造りの家はあったが、地下部分のない普通の二階建ての方が多かったと思う。
何ぶん小1までの記憶なので、正確なことはわからない。
かなり老朽化した家で、全体的に少し傾いていた。(ビー玉やボールが転がる)
狭くて急な階段は、家の歴史とともに、踏み板がツルツルに磨かれたうえ斜めになっていたので、幼い僕は足を滑らせ何度も上から下まで転げ落ちていた。
落ちるたびに泣いたが、怪我をしたことはなかったと思う。
二軒隣に小さな駄菓子屋さんがあった。
黒棒のくじを引いたり、ヨーグルを買って舐めたりもしていたが、それよりもほぼ毎日のように店の奥の家に上がり込み、駄菓子屋のおばあちゃんと火鉢を挟んで座り、一緒にテレビを見ていた。
祖父母の顔を知らない僕にとって、当時「おばあちゃん」といえばこの駄菓子屋のおばあちゃんのことだった。
おばあちゃんと見ていたテレビは「いつも常に水戸黄門」だった気がするが、そんなわけもないだろう。
近所に、段差の地形を降りる形で石段があり、降りた先には神社があった。
その石段と神社の辺りが、近所の子達との遊び場だった。
あとは誰かの家とか。
でも月〜土で夕方まで、母親の職場近くの保育園に通っていたのだから、案外、近所で遊ぶ時間は少なかったのかもしれない。
保育園は正直あまり好きな場所ではなかったように思う。
断片的な記憶の中に楽しかった思い出はなく、いつも居心地の悪さを感じていた。
お弁当の時間、隣の奴に耳に箸を突っ込まれて耳鼻科に運ばれたこととか、そんな思い出ばかりが浮かんでくる。
あと、保育園の年長から小1まで通ったスイミングクラブ。
これも、母親にある日突然連れて行かれて、無理矢理に泳がされたような気がする。
辞める最後までずっと嫌だった。
それに比べて、小学校は楽しかった。
同じ保育園からの子は少なく、初めは不安もあったと思う。
でも慣れてくれば、友達との登下校の時間も、先生も、授業も面白かった。
今思い返してみても、個性的なメンバーが揃った楽しいクラスだった気がする。
今みたいに学童保育などなく、学校から帰った僕は、使っていない古い「牛乳受けの箱」に隠した鍵で家に入り、自由な放課後の時間を過ごしていた。
当時よく言われていた「鍵っ子」である。
クラスで新しい友達が増えるのとともに、僕の行動範囲は、学区の端から端までどんどん広がっていった。(常に徒歩だけど)
友達の家へ行ったり、一緒に遊びに出かけたり。
駄菓子屋のおばあちゃんの家にお邪魔したり、家で一人でテレビを見たり。
週に1、2回はスイミングに行かねばならず、それが憂鬱だった。
学校の友達は、僕にいろいろと新しい世界を教えてくれた。
それまで知らなかった公園、飛び出す絵本のある図書館、秘密基地、トランポリン、屋台のおでん、マンガの本の存在、怪獣消しゴム集め・・・・・・。
学校も、放課後も、「自分に馴染みの世界(=テリトリー)」を少しずつ広げていく歓びに満ちていた。
しかし、やっと自分の足で広げられるようになり始めたこの馴染みの世界も、たった一年で失ってしまう。
2年生になるタイミングで、郊外の町へ引っ越し・転校をしてしまったからだ。
***
今も同じ市内に住んでいるので、時折、その子どもの頃に住んでいた町を通ってみることがある。
もちろん新しく変わっているところはたくさんあるが、全体的な町の雰囲気はそれほど変わっていない。
昔の風情を色濃く残す、時が止まったような町だ。
子どもの頃の遊び場だった石段へ行ってみる。ここで何して遊んでたんだっけなぁ?
そういえば僕はこの石段で、散歩中の神社の超獰猛な犬に脚を噛まれたんだ。
コーデュロイの長ズボンに牙の穴が2つ空いたが、脚は無事だった。
あの時の石段、こんなにちっちゃかったのか。
信じられない。
僕が「totoが当たったらやりたいこと」をあれこれ夢想する時、
その中には、もう一度あの町に家を買って暮らしたい、というものがある。