たしか大学二回生の夏休みだったと思う。
所属していた吹奏楽部の練習を終えて、日暮れのキャンパスを友人と二人で歩いていた。僕は大学敷地内の学生寮へと帰る。
喋りながら歩いていると、左足の先、革で編んだグルカサンダルのつま先に「カサッ」と枯れ葉か何かが引っかかったような感覚があった。
歩きながら、ほとんど無意識につま先を振り払うような動きをしてみたが取れない。
薄暮の中で左足の先に目を凝らすと、それは枯れ葉が引っかかっているのではなく、カブトムシが僕のサンダルにしがみついているのだった。
ツノの生えたオスのカブトムシ。
「わぁ、カブトムシや。」 「うわ、ほんまや。」 カブトムシはちょっとずつ僕の脚を登って来ている。友人と別れて寮に帰った頃には、カブトムシは僕の胸まで登って来ていた。
そのまま友人Sの部屋へ見せに行く。
「Sさん、カブトムシ捕まえたで。捕まえた言うか、足に勝手に止まって来てん。」
「マジで? そや、Uさんが前に亀飼うてた水槽が空いてた筈や。あれに入れよか?」
僕らはプラスチックの水槽に土や落ち葉を敷いてカブトムシを入れた。蓋がなかったので、寮の廊下の破れた網戸の端っこを少し戴いて水槽の蓋として被せ、ビニール紐で縛った。
「カブ吉と名付けよう。」Sが言った。
彼は見知らぬ犬や猫に出会うと、いつも「イヌ吉〜」「ネコ吉〜」と呼びかけては可愛がっていた。
僕らはカブ吉の水槽を屋上に上がる階段の踊り場に置いた。薄暗くて比較的涼しい場所だ。「今日、旅館のバイトやから余ったスイカあったらもらってくるわ。」Sは出かけていった。
こうして僕の足に止まったカブトムシを、寮で雑に飼い始めた。
数日後、付き合い始めの彼女と森林公園(的な所?)に行った。
初めて行く公園だった。しばらく二人で歩いていると、突然彼女が「あ、クワガタが落ちてる。」と地面を指さした。
見ると本当にクワガタだった。しかもミヤマクワガタだ。
小学生の頃、低学年はカブトムシで、高学年になってくるとクワガタの方がかっこいいみたいな風潮があった。その中でもミヤマクワガタを捕まえている子はあまり多くなく、頭の形がかっこいいので憧れのクワガタだった。
そのミヤマクワガタも捕まえて寮に持ち帰った。
カブ吉の隣に入れる。
「ミヤ吉と名付けよう。」Sは言った。
あじろとSがカブトムシを飼っているらしい。どうやらあじろにはカブトムシが寄って来るらしい。
そんな噂が寮内を中心に僕らの友達周りで広まった。
「先輩!カブトムシ捕まえました。あげます!」後輩のMっちゃんがオスのカブトムシを持ってきた。
寮に帰って水槽に入れるようとすると、何だか中のカブトムシが増えている。
「Fがメスのカブト歩いとった言うて入れよったで。」Sが言う。
子どもの頃には捕りに行ってもなかなか捕れなかったカブトムシが勝手にどんどん集まってくる。どうなってるんだ?うちの大学はそんなに山奥にあるわけでもない。周りは普通の住宅地だ。
極めつけは吹奏楽部の練習中、外で個人練習をしたり、数人でだべったりしている時のことだった。
かなり日が暮れてきた頃、何やら黒い物体が飛んできて生協2階のガラス扉に「ガーン!ガンッ!」と2回激しくぶつかった後、方向を変えて飛び、みんなの目の前で僕の肩にピタリと止まった。
カブトムシだった。オスの。
一緒に喋っていたパーカッションのTちゃんは、「あじろ、あんたカブトムシに取り憑かれてるわ・・・」と気味悪そうに言った。
水槽の中はカブトムシとクワガタで賑わっていたが、正直その夏、僕は忙しかった。
吹奏楽のコンクールも間近で、バイトも夜遊びも恋愛もあり、あまり寮にも帰れていなかった。カブトムシ達を入れるだけ入れて、世話は人任せになっていた。
Sや他の寮生がエサをあげてくれていたが、ある日Sが行ってみると被せていた網が外れて、中の虫たちが一匹残らずいなくなっていたという。
「誰かが中を覗いて、ちゃんと閉めんかったんかな?」Sは言っていたが、僕はホッとしていた。ちゃんと飼える状態ではなかったし。
土を捨てて、水槽を洗って返却した。
あれからもう二度とカブトムシが寄ってくるなんてことは無くなった。すべては二週間ちょっとの間の出来事だ。
僕の人生で一度きりの不思議な「カブトムシの夏」だった。