totoを当てる日

サッカーくじtotoを当てて人生を変える話

4月29日

祝日が増えすぎた。

 

 

初めは祝日は仕事を休みにしていたのだが、いつの間にか祝日がだんだん増えて、「お休みの嬉しさ」よりも「休み多くて収入が減る・・・(´・ω・`)」の方が上回ってきた。

 

休みが増えても収入が変わらないのなら、喜んで休むんだけど。

 

そんなわけで祝日の休みはなし。いつもと変わらない日々を過ごしている。

GW中のJリーグの連戦だけはちゃんと観られるので、それを楽しみに生きている。

 

 

3人の子どもたちも、中学生くらいからはGW中も部活の試合だなんだで忙しい。

でも小さいうちは、人並みな「GWらしい気分」を味わわせてやりたいと思っていたものだった。

 

5月の三連休は休めなくても、「4月29日の祝日だけは休みにする」とか、「日曜日には朝から張り切って出かける」とか、「仕事の日でも、非日常を感じるようなご飯やおやつを作ってみる」とか。

 

GooglePhotoが「10年前の今日の思い出です」とか言って、スマホに昔の写真を自動で送ってくるやつがある。

4月29日は、「198cmのブラジル人ストライカーと一緒に写る子どもたち」や「観光地の謎の顔ハメパネルから顔を出す娘」みたいな思い出が送られて来がちな日、だ。

 

 

 

 

ただ三年前からは、この日は「父の命日」になった。

 

僕は、姉とは歳がかなり離れ、遅くに生まれた子どもだったので、両親ともに、同級生の親たちよりもだいぶ年寄りである。

 

だから父も決して早くに亡くなったわけではない。まあ十分に寿命を全うできたと言っていいと思う。

そのため父の死自体は、そこまで悲しみが深いというほどでもない。むしろその歳まで元気でいられたことに感謝の気持ちもある。

 

 

2020年の正月明け、「中国で重症の肺炎になりやすい感染症が流行している。」というニュースから始まり、それが「新型コロナウイルス」と呼ばれ、またたく間に世界中に拡がり、日本ではすべての学校が休みになった3月の頭まで。

 

父はちょうどその間、2月の初め頃に、元々持っていた肺の病気で入院した。

それまでも、認知症とまでは言えないけど、あまり何もすることもなく、かなりボンヤリした毎日を過ごし、身体もだんだん弱くはなっていた。

 

入院した時は面会も普通にできていたが、じきに「家族の一人だけが受付に記録を付けて」になり、あっという間に「病院内全面立ち入り禁止」になってしまった。

 

父は病室でテレビも見ず、新聞も読まずだったので、その頃の、「日に日に変わっていく世の中の情勢」はあまり分かっていなかったと思う。ただひたすら「誰も見舞いに来ない日々」を一人で過ごしていた。

 

「今、病院の外では新しい感染症が流行っていて、世界中、学校も仕事も休みで、外出も制限されてるんだよ。」そのころの世の中の一変ぶりを説明しても、「息子が嘘ついてるんじゃないか?」と疑われそうなくらいに、現実味がない話な気がする。

 

 

父は、言っちゃあ何だけど、外でも家でも存在感の薄い人で、必要なことも必要ないこともほとんど喋らない人だった。

僕に特に何か影響を与えてくれた気もしない。

かといって嫌な気持ちにさせられたこともない。

親として(というか男としてかな?)頼りないと感じていた時期もあったけど、客観的に見て、穏やかで可愛げのある人だった。

 

僕なら10分も話をしていたら苛々してくる母親のひたすらの文句にも、言い返さず黙っていた人。

不平不満も言わず、静かに状況を受け入れる人。

 

それは、誰も面会に行けない病室でもずっとそうだったみたい。

「(看護師さんたちが)みんなよくしてくれて、ここはいいところだな。」

ニコニコしてそんなことを言っていたらしい。(父はそんな気の利いたことも言えたんだな)

 

三ヶ月間入院して、そのまま家に帰ることはなかった。

 

 

 

この年は、娘二人の大学受験と高校受験が重なり、マンション理事の役が当たり、コロナで仕事の先は見えず、父が入院し、とやたらバタバタした年だった。

 

そんな中、コロナの影響で一番仕事が暇で、GWで仕事を休むのにも都合のいい、この日に。

変な言い方だけど、とにかく仕事最優先の僕にとっては「助かる」日、だった。

うまく伝わらないと思うけど、なんかそんなことさえも「父らしい」と感じた。

家族の手を煩わせることもなく、静かに、穏やかに。

 

 

 

纏まりのないこんな文章を書いているうちに、いつの間にか日付は変わっていたようだ。