寝る前にはだいたい毎日、白湯を飲む。
最近はバルコニーでアウトドア用の椅子に座って、夜風に吹かれながら飲むのがお気に入りだ。月を眺めたり星を眺めたりしている。今日は雲が多いので何も見えない。明日あたり満月なのかな。
風がずいぶん涼しくなってきた。夏の終わりを感じる。
そういえば今年の夏は一度も素麺を食べなかったな。珍しいことだ。毎年飽きるほど食べるのに。
理由は単純で、今年は素麺を誰にも貰わなかったからだ。そうか、毎年誰かにいただいていたのか。ありがたいことだ。
そのかわり今年はスイカと桃とハムをよく食べた。重なっていただいたからだ。
我が家は相変わらずもらい物で暮らしている。
最近、「人に対して否定の気持ちから入らない」ということを心がけている。この歳にして今さらだけど。
人の好き嫌いの印象、その判断は瞬間的だ。「厄介そうな人だ」とか、「傲慢な感じの人だ」とか、「うわべだけの調子のよさそうな人だ」とか。僕は毎日いろいろな人と接してきたので、その判断はだいたいいつも正しい。・・・と思ってきた。
本当にそうなのかな?
自分がそう思って接するから、相手のそういう面が強調されて見えてしまうのかもしれない。こちらの接し方が変われば相手の態度も変わるものだし。
僕は人を否定的な目で見ることが多い方なんじゃないかと思っている。疑り深いし、皮肉屋でもある。人のせいにするなら母親譲りなのかもしれない。
「相手を否定してやろう」と思っているわけでもないのだが、おそらくそれは警戒心の強さであったり、自分の自信の無さの表れであったりするのだと思う。
もっと許容量のある、心の広い人間になりたいのだ。
今さらながら。
「人の脳、考え方や考え癖は56歳までは変化するけれど、その後は(ある意味完成されて)もう変化しない」というのを本で読んだことがある。
残りの人生は、その完成された(自分用に最適にカスタマイズされた)脳で生きるので、本人にとっては楽になるし、他人からはもうその考え方を変えられない、ということになるらしい。「自分にとって何がいいか」、その判断のスピードは上がり迷いがなくなるという。
僕は「人に対して否定の気持ちから入る」脳で完成したくない。それは結構アンハッピーな日々になりそうな気がする。
今まで長年培ってきた考え方の癖は果たして変えられるのか?
僕に残されている時間はそれほど多くはない。でも一応頑張ってみる。
夏の終わり、夜中にこっそりと書き残してみる。