totoを当てる日

サッカーくじtotoを当てて人生を変える話

Spit it out ①

仕事場ではいつもラジオを流していることが多いのだが、文化の日で祝日の今日は、普段の番組とは違う「90年代ヒット曲特集」みたいな番組をやっていた。

90年代は、僕の「学生時代から、仕事を始めて結婚するまで」くらいだ。懐かしい曲が次々かかる。

俳優の吉田栄作が歌手活動をする時に「吉田A作」を名乗っていた当時の曲がかかり、大学生の頃に友人と、あれは佐藤B作を意識しているのかな?などとくだらない会話を交わしたことを思い出した。松田優作がU作を名乗りだしたら嫌だね、とか、嶋田久作がQ作を・・・などという会話をしていたあの友人は、僕にその大学への進学を決意させた男でもある。

 

 

 

高校生の頃の僕はかなり無気力になっていた。

 

うちの両親は、僕のほとんどの同級生の親たちよりも10〜15歳くらいは年を取っていたのだけれど、これはちょうど戦前生まれと戦後生まれの違いにもあたり、家庭内の価値観が友達の家とは結構違うなぁということを、小学生の頃から子ども心にも感じていた。

クラスのみんなが観ているようなテレビ番組をまったく僕は観ていなかったし、ガンプラ、ラジコン、ファミコン、CD、ビデオ、PCなどの、同級生たちに次々やって来る流行りも、僕にはまったく訪れることがなかった。

特にファミコンに始まるゲームの出現以降は、友達との会話も遊びの中心もそれになっていく中で、何も持たない僕はなかなかの疎外感を味わっていた。

それでもそのときどきで仲良くなる人たちはいて、多くはないけど友達がいなくて困ることもなかった。

 

家ではだいたい自室で、自分の小遣いで買える範囲の文庫本やマンガを繰り返し繰り返しずっと読んでいた。11歳年上の姉が社会人になって、中学生の僕にラジカセを買ってくれた。家での過ごし方は本と音楽、ラジオになった。

 

塾には行ってなかったけれど、学校の勉強はできた。

それでも中三になって、それまで好きで通っていた合気道の道場は「受験生だから」という理由で親に辞めさせられた。代わりに、初めて塾の夏期講習というものに通わされた。すると、それまで「クラスで1番」くらいだった成績は「学年で1番」になった。

 

周りに優等生的な見られ方をしていた僕は、ナントカ会長とかナントカ委員長みたいなものや、弁論大会代表なんかに選ばれがちだった。

選ばれたからと思って人前で喋ったりすることも頑張ってはいたけれど、心のうちでは辛いと感じることも多かった。学力とリーダーシップなどの能力は別物だし、そういうものが、それほど好きでもやりたくもなかったからだ。

大人になった今でも、自分自身、残念ながらリーダーのポジションには向いていないと感じる。僕は「自由な立場でアイデアをどんどん出す参謀」的なポジションにいる時が一番力を発揮できる気がする。

 

 

中一の時、担任の男性教諭から突然呼び出されて「何か、ときどきめっちゃ憂鬱そうな、苦しそうな、そんな風に見える時があるんだけど、何かあるんか?」と聞かれたことがあった。

「いや、特に何もないです。大丈夫です。」僕は答えた。

実際、虐められているとか何か困っているとか、具体的なことは何もなかった。そんな辛そうな素振りを見せているという自覚もなかった。成績もいい、友達もいる。そんな僕に、担任は何を見つけて声をかけてくれたのだろうか?

 

具体的に言えることは何もなかったが、憂鬱感や不安感は幼い頃から常にあった。それがある意味「通常運転」だった。

小学生の頃から「むなしい」という言葉を意識することがあった。「虚無」に心が囚われて、心が死に向かって行くと感じることが時々あった。何かが辛くて死にたい、というよりも、生きていくのが虚しくて面倒くさいという感じだった。

 

そういうものが内にあることまでは、担任も分からなかっただろうし、僕もその頃は、はっきりと自分で認識できていなかった。それでも担任には、家庭訪問や懇談でうちの親と接したり、毎日の僕の様子を見る中で、何か気になることがあったのかもしれない。

偶然にか意図的にか、中学の三年間はずっと同じその先生が担任だった。引っ込み思案だった僕に色々なことにチャレンジする機会を与えてくれた、普段はただ明るくて面白い先生だった。

中学時代の僕は、時々「居無」に囚われながらも、なんとか頑張っていた。

そして高校に入って無気力になっていく。      (つづく)